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「あら、ほんとうに沢山とれたんですね」
言葉つきは叮重だつたし、云つたことも何ら不自然ではなかつた。だが、その挑いどむやうな強い眼の色と全身に滲み出た一種圧迫的な怒気とはその表面の叮重さを明かに裏切つていた。効果は覿面てきめんだつた。
「ふむ、トンネルのハッパだな」
「徳さん。追鮎は君のといつしよに活かしといてもらはうか――どつこいしよ」
「いためた?」
その次にふり向いたとき、果はたせるかな、殆ど目の前の対岸から、はつきりと彼の方を向き、ためらひながら何か云ひたげにしているやうな相手の顔を見た。それは徳次の幼友達であり、彼の兄貴株でもあれば大将株でもあつた、そして今は彼なんかには傍へもよりつけないやうに感じられるあの「医師高間房一氏」であつた。
義母は明日も片づけ仕事が残つているので泊つて行くことになつた。
盛子ははじめ打明けたとき、房一が悦んで早速念入りに診てくれるものと思ひこんでいた。彼はたしかに驚いて、ぽかんと口を開けさへした。それからまじまじと盛子を見つめ感心したやうに、「ほう、さうか」と呟いた。が、それだけだつた。一二度症状を訊いたきりだつた。つはりだつて、あるかないかわからない位軽くはあつたが、別に注意している様子もなかつた。盛子は時折診察を求めたが、房一は生返事をして、何かしら尻りごみするやうに、臆病げな目つきでちらりと盛子の下腹部を眺めるだけであつた。盛子の心にしだいに疑惑が生じた。「ひよつとしたら、あの人は子供ができたのを悦んではいないのではないかしら」それから、「つまり、私といふ者を愛してはいないのではないかしら」と。この思ひもよらない考へは、他に考へやうがないために、いかにも本当らしく見えた。たうとう、盛子はなまめかしい発作を起して、房一につめよつた。
「や、さうですか。僕も今そこから帰るところです」
だが、あれだけの人数を僅か三四十分の間にどうして引上げさせたものだらう。本署から自動車で署長以下がやつて来るといふ噂も効果があつたにちがひないが、房一はじめ、神原喜作も練吉も小谷まで、それから後から馳けつけて来た四五人の主だつた連中も声をからして説得してまはつたので、又、半鐘が鳴つてからもう三時間近くもたつていたので恐しく冷えこんで来た夜気は焚火にあたつている側だけが熱いばかりで、背中がぞくぞくするほどだつたから、容易に引上げなかつた人達もさすがに疲労し、興奮がさめ、三々五々散らばつて行つたのである。
「相沢の先代が生きている間は知吉さんも手が出なかつたのさ。目の上の瘤がなくなつたから、いよいよ本性を出したといふところだらう」
と、彼は思ひ出したやうに房一の顔をのぞきこんだ。それは、いつか道平を診察しての帰り路で、「あれだね、君は見かけによらない親思ひなんだね!」と叫んだ時とそつくりな感嘆をまじへた親しさといつた色が閃いていた。
小谷の店では実にあらゆる品を売つていたが、その中には僅かだが薬品類もあつた。したがつて、高間医院は小谷にとつて多少のお得意先でもあつた。今では、小谷は心易立てに注文のあつた薬品を「店主自から」ぶらさげて房一の所へ持つて行き、そのまゝ話しこむやうになつている。
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